October 19, 2019
三学会合同国際研究集会 パネル発表のお知らせ
みなさま、大変ご無沙汰しております!!
みんな元気に研究に励んでいました^^
研究集会の詳細については公式HPをご覧ください↓
https://irc2019jpml.wixsite.com/home
ーキャノン・アイデンティティ・翻訳ー」
2階202教室(会場14)
以上。
January 14, 2018
歴博『1968年』展の見学&成田山新勝寺観光
日大院生の徳本・福尾です。
去る12月10日、歴史民族博物館に『1968年』展を見に行って参りました。
今回は、そのときの感想などを二人で書きました。どうぞごゆるりとお楽しみください。
歴博でRAをされている千葉大大学院生の山崎和氏にご案内いただきました。この場を借りて御礼申し上げます。
まずは徳本から感想を。
続いて福尾の感想です。
1968年といえばちょうど母親が生まれた年でした。父は64年生まれです。親戚にも大学を出たひとや政治的運動に関わっていたひとがいないので、そうした空気とはほぼ無縁で育ってきました。
初めてベトナム反戦運動や大学闘争について知り、勉強したのは大学に入学してからのことでした。2年生のときに、ある先生が授業のなかで「パッチギ」(2005年)という井筒和幸監督の映画を観せてくれました。この映画は68年の京都を舞台に、朝鮮学校の学生と府立高校の学生同士の闘争や恋愛、友情を描いたものです。この映画には「イムジン河」というザ・フォーク・クルセダーズが歌ったフォークソングが全編に渡って流され、その曲の内容と重ね合わせられるように日本人学生の暮らす町と在日朝鮮人学生が暮らす町の境界として鴨川が置かれます。映画のなかには、この鴨川を日本人の男子学生が泳いで渡って、朝鮮学校の女子学生の元に向かう場面や川の真ん中で学生同士が闘争をする場面などがあります。(ちなみに結果は引き分け)
授業でもこうした境界について触れながら、実際の政治的構図と映画に描かれる朝鮮学校の学生対府立高校の学生の対立構図について説明していたと思います。(適当なことは言えませんので細部については書きません)
この映画の「川」を境とした「分断」の構図は、ベトナムが南北に分断された構図と朝鮮半島の南北分断の構図とも重ねられているわけです。
今回の「1968年」展では、当時使われていたパンフレットやビラ、旗やヘルメットなどの細かな資料がかなりの数展示されていて、後半は見切れないほどでした。(大阪発のフォーク集会の資料もありました。「パッチギ」には集会そのものは描かれていませんが、フォークソングを通じて若者たちが集まって議論していた雰囲気や背景は思い浮かべることができました)
なかでも神戸行動委員会の展示のなかで、ノートに書かれていたタクシー運転手さんのエピソードが印象的でした。資料からその部分を引用したいと思います。(以下、図録『「1968年」――無数の問いの噴出の時代』歴史民俗博物館振興会、2017年12月、p51から引用)
◎東播交通のタクシー運転手
午前11時頃 車をとめて いっしょにすわりこんでくださる
ベトナム戦争の話 日韓の話や自分が自動車で黒人兵が神戸港から出兵していったとき(朝鮮戦争のとき)金を一銭も残さず使ってしまう話 どうせ金を持っていったって 最前線にいかされて死ぬ身だから…… 約1時間半ほどすわって激励の後帰られる。
戦争によって引き起こされた様々な分断はすべて地つづきにあって、そこでの線引きや棲みわけがまた別の軋轢を生む。そうして解決されないまま放置されてきた問題が次々に見直されてきたのがこの時代だったのかなというのが全体の印象でした。
「1968年」への問いかけは、朝鮮戦争や日韓関係の問い直し、ノートに書かれていた黒人兵と白人兵の階級格差の問題、またベ平連こうべ「月曜のおんな」の会や日本のウーマン・リブ運動の資料が注目されていたように女性やマイノリティの権利獲得に向けての闘争にもつながっているというわけです。なぜ、今この時代に「1968年」なのかということも改めて考えさせられました。再び様々な壁や分断が立ち現れようとしているこの時代を乗り越えるためにも、もう一度過去の歴史に向き合う時期なのかもしれません。
もっと言うべきことが山ほどありますが、ひとまず感想終わります。
最後に……
難しいことを考えた後、私たち一行は成田山新勝寺でリラックスし、そのあと上野で美味しいお酒をたんまりと飲んだのでした。
おしまい
↓歴博の猫たち
↓歴博の美味しい古代米ハヤシライス(カレーもあります)
↓うなぎが有名な成田。
↓成田山新勝寺にて。一緒に企画展をみたメンバー。
↓美味しい料理とお酒と思い出と……
↓グビグビ…
December 25, 2017
メンバー自己紹介その9
「黒沢祐人について」
いうならば、ふだんから知人には黒沢と呼ばれていたし、じぶんが黒沢であるという自意識も人並みにはあった。しかしある日とつぜん、といってもそれは前々から言われていたことで、すっかりそのことを忘れてしまっていただけではあるが、岩崎稔先生のご紹介で参加させていただいている、日大大学院の高先生のゼミで運営しているブログで、自己紹介をする機会を与えられたとたん、はたしてじぶんがいったいどのような人間であるのか、よくわからなくなってしまった。いざ説明しようとしてパソコンの前に座ってみると、じぶんが黒沢であるということの理屈がわからない。それまでピンと背筋を伸ばした少年のように力んでいた指先が、タイプする力さえすっかり奪われてしなしなとたゆんでしまった。決められた期日をすぎてもなお、うまいことじぶんを紹介する適切なことばがみつからない。途方にくれて放心する。埃まみれの自宅を出て、半時間ほどあてもなくぶらぶらとしていたが、気づいたらわたしは大学図書館にいた。クリスマスなのでほかの学生はほとんどいなく寂しい。そこでわたしは同じくひとりぼっちになって途方に暮れているかれを見つけた。
そこが府中市にある東京外国語大学の付属図書館であることから、とりあえず、かれが日大の学生ではないことがわかる。数少ない服を何度も着まわしているのだろうか、大学生としては身なりがひどくくたびれており、ときおり空気のぬけたような顔で、だれもいない円形の中央広場を、窓越しに何を見るともなしにながめている姿からは、新入生の初々しさがないのはいうまでもなく、どんな大学生ほどの活力もうかがえない。いまかれは席を立ち、階段を降りて地下の書庫へと消えてしまった。
ちょっとした好奇心が芽生えた。わたしはかれのいないこの隙を利用して、なるべくすばやく、机に散らばったかれの持ち物を調べてみることにした。
まずはじめに目につくのは黄色い背表紙の分厚い単行本だ。これは河出書房新社から出ている世界文学全集の一冊で、ちょうど残雪(Can Xue)とバオ・ニンの作品が収録されているもののようだ。残雪とは不思議な名前の著者だが、たしか彼女の作品はカフカや安部公房のようなところがあったはずだから、そういうちょっと不条理な文学が好きなのかもしれない。その横に積み重なっているのは沖縄の作家、目取真俊の三冊の作品集だ。さきほどのバオ・ニンといい、おそらく戦争文学に興味があるのだろう。ただ、こっちの三冊には、それほどつけたら逆に意味がなくなるのではないか、と心配させられるくらいおびただしい数の付箋が貼ってあるから、ちょっとした興味で読んでいるというわけでもなさそうである。近くに何枚かの論文があって、そのどれもが目取真俊についてのものであるから、きっと目取真に関する論文でも書こうとしているのだろう。そばには筑摩書房から出ているスキンヘッドのフランス人の文庫本や、ケア論関係の本も何冊かあるから、その方面から論じることを考えているのかもしれない。ひょっとして大学院生にでもなるつもりだろうか。よく見ると論文のあいだに入学料免除申請のための書類が挟まっている。どうやら金銭面で困っているようだ。また、手垢の目立つ汚れた画面のノートパソコンには、辺野古で撮られたらしい写真が映し出されていて、かれのうしろ姿も見える。そのパソコンの横には、手のひらに乗るくらいの小さな透明のケースが置いてあり、中には若草色をした耳栓が四つ入っている。こんなものを付けなくても図書館の中はじゅうぶん静かなのだが、かわいそうに、本のめくられる音にも耐えられないほど神経質な性格なのだろうか。
そんなふうに同情していたら、いつのまにかかれが戻ってきていた。わたしは一瞬、じぶんの不審な行動をとがめられるかと恐れたが、むしろ怯えているのは向こうのほうだったらしい。かれは何も言わず、こちらを無視して席に着き、黄色い背表紙の分厚い本を手にとって、なにごともなかったかのような顔をつくってそれを読みはじめた。わたしのほうも、他人の秘密をこっそり探るような真似をしてやはり少し気まずかったし、もうかれに対する好奇心もじゅうぶん満たされていたので、じぶんの席にもどると、こちらもなにごともなかったかのような顔をつくって、読みさしの本に手を伸ばした。
さて、しばらくするとわたしはむしょうに腹が立ってきた。あんなに露骨に無視されたことが、あとから癪にさわってきたのである。かれはまたパソコンに向かって、何かを書きはじめたようだ。けれど数分もしないうちにふたたび手が止まってしまって、そのままその硬直は全身にひろがってかれをかれじしんの肖像画のように静止させた。きっとまたじぶんが黒沢であることに驚いてしまって、もう自己紹介どころではないのだろう。いい気味だ、と胸の中で吐き捨てるように言おうとしたが、もっとずっと複雑な感傷が芽生えていたせいでそれができなかった。わたしはかれの絶望的な様子を見て、ふたたび同情の念を心にはぐくんでいた。そして、まったくのお節介かもしれないが、かれのかわりにかれを紹介する文章を用意しようと考えた。
自分のことを書くのは難しいが、他人について書くのは簡単である。
(文責:黒沢)